
振り向いた先には、白いシャツにデニムをまとった青年が立っていた。彼は穏やかに微笑んでいるが、その顔にはどこか懐かしい影が宿っている。美月は胸の奥が疼くのを感じたが、理由がわからない。彼はそのまま手を差し出し、そっと彼女の名前を呼んだ。
「美月…会いに来てくれてありがとう。」
その瞬間、美月の頭に、幼い頃の記憶が洪水のように押し寄せた。彼は、小学生の頃に毎日のように一緒に遊んでいた「陽一」だった。
陽一との出会いは、小学生の夏休み、田舎でのことだった。美月は両親の都合で一夏だけ田舎に預けられ、慣れない環境に最初は戸惑っていたが、そこで陽一と友達になり、毎日のように探検ごっこをしていた。陽一は年上で、いつも明るく、美月の遊びのリーダーだった。
二人が見つけた秘密の場所は、古びた大きな木の下だった。そこには、誰も知らない青い果実が実っていた。陽一が青い果実を手に取り、ふたりでかじったとき、彼はこう言った。
「これは特別な果物なんだ。これを食べたらずっと覚えていられるってさ。」
しかし、その夏休みの最後の日、美月は突然両親に呼ばれ、帰ることになってしまった。陽一は駅まで走って追いかけてきたが、駆けつけることはできなかった。そして、その後、美月は陽一のことを少しずつ忘れてしまったのだった。
記憶の渦から抜け出し、美月は再び目の前の陽一の顔を見つめた。まるで時を越えてその場に現れたかのような陽一の姿に、美月は言葉を失ったままだった。陽一は少し微笑んでいたが、どこか寂しそうでもあった。
「君が忘れてしまうことは、ずっと前から分かっていた。でも、こうしてもう一度会えてよかったよ。」
美月は涙を堪えながら陽一の言葉に耳を傾けた。陽一の声は温かく、しかし現実には届かないように遠く感じられる。その距離感に、美月の胸が締めつけられる。
「陽一くん、私は…あなたを、ずっと忘れてたんだね。」
彼女の言葉に、陽一は優しく首を振った。
「忘れるのは仕方ないよ。みんな、新しい出会いや経験でいっぱいになる。僕はただ、君が幸せでいるならそれでいいと思ってた。でも…青い果実が君を呼んでくれたんだ。」
陽一の顔がかすかにぼやけ始めた。手を伸ばしても届かない距離に彼が漂っている。美月は衝動的に手を伸ばしたが、その手は虚空を掴んだだけだった。
「待って、行かないで!」
美月は叫んだが、陽一の姿は少しずつ霧のように薄れていく。涙が溢れるのを感じながら、彼女はその場に立ち尽くした。
「美月、僕たちはもう一緒にはいられないけれど、君が忘れても、君の中に僕はずっといるよ。この青い果実が、僕たちの記憶を繋いでくれたんだ。」
陽一の声が遠くに響く。その言葉とともに、美月の胸に、温かい感覚が染み込んでくる。美月は、最後にもう一度だけ陽一の名前を呼んだ。
「陽一くん、ありがとう。私はもう、あなたを忘れない。」
陽一は柔らかく微笑むと、まるで風に消えるように完全に姿を消した。
目を開けると、美月は再びカフェの席に戻っていた。目の前のグラスには、すでに青い果実が消えていたかのように見えた。しかし、その甘く切ない余韻が、口の中にまだ微かに残っている。
カフェの店員が静かに近づいてきて、グラスを下げるときに微笑んだ。
「彼と会えましたか?」
その問いに、美月は静かに頷いた。店員は深く頷くと、何も言わずにカウンターの奥へと戻っていった。
店を出たとき、美月の心は不思議なまでに晴れやかだった。まるで、心の中に一筋の光が射し込んだような気がする。過去の大切な記憶とともに、陽一が彼女の心の奥底で生き続けていることを感じ、前を向く力をもらったようだった。
あの日の出来事は、それから一度も再現されることはなかった。だが、美月は時折カフェの前を通るたびに、あの青い果実を思い出した。果物には不思議な力が宿っていると信じるようになった彼女は、心のどこかで陽一が彼女を見守っていると感じるのだった。
その果実が、彼と過ごした大切な時間を呼び起こし、美月に前を向かせてくれた。その奇跡を胸に、美月は静かに新たな一歩を踏み出した。
[ojisama]
