【短編小説】果実の約束 / 前編

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瑞希(みずき)は郊外の広大な果樹園を一人で守っていた。

幼い頃からここで育った彼女は、都会の大学を卒業後、父の急逝をきっかけに地元に戻り、家業を継いだ。しかし、彼女の心にはぽっかりと穴が空いていた。それは母を失って以来、埋めることのできない孤独の穴だった。

果樹園の奥には、瑞希が「光の木」と呼ぶ古い一本のリンゴの木がある。幼い頃、母とともにその木の下で過ごした時間が瑞希にとって唯一の心の支えだった。母が編み物をする手元や、絵本を読み聞かせる優しい声。どれもが瑞希の心に鮮やかに残っている。
しかし母が病で亡くなり、父も数年前に果樹園で倒れたときから、光の木は彼女にとって安らぎと孤独を同時に感じる場所となった。

ある夏の日、果樹園に一人の男が現れた。彼は瑞希の知らない顔だった。スーツを着てカメラを肩に掛けた都会的な男性で、どこか少し疲れた表情をしていた。
「すみません、ここで写真を撮らせてもらってもいいですか?」
瑞希は一瞬、答えに詰まった。人と話すのが苦手な彼女にとって、見知らぬ人間との接触は大きな負担だった。それでも、彼の穏やかな声に促され、瑞希は小さく頷いた。

男は一樹(かずき)と名乗った。彼は旅する写真家で、都会での雑踏から逃れるようにこの町に辿り着いたという。
「この果樹園、すごく特別な光を感じますね。」一樹はカメラを覗きながら呟いた。瑞希はその言葉に胸がざわめくのを感じた。それは、自分だけが知っていると思っていた光の木の「特別さ」を見透かされたような感覚だった。

それから数日、一樹は果樹園に足繁く通うようになった。彼のカメラは果樹園の隅々を捉え、瑞希が気づいていなかった美しさを引き出した。彼が撮った写真を見るたび、瑞希の胸に小さな灯りがともったような気がした。

ある日、一樹は瑞希にカメラを差し出した。
「これ、触ってみますか?」

瑞希は驚きながらも手を伸ばし、カメラを受け取った。
「自分の目で見る世界を撮ってみてください。」

瑞希は最初、ぎこちなくシャッターを切ったが、レンズ越しに見る光景はどれも新鮮で、彼女の孤独な世界に色を差し込むようだった。その日の帰り道、瑞希は心の奥底に、小さな期待のようなものが芽生えていることに気づいた。


後編 ▶


[ojisama]

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